今月のインタビューは綱島にお住まいの

    東西の地酒グループ会長 村松茂夫さんです

      (このインタビューは2回にわけてご紹介します)

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村松さんは、本物の日本酒を見つけるために全国各地を歩いていらっしゃり、20年以上前から日本酒教室

を各地で開催されています。酒は馬鹿飲みするものではなく、礼儀作法に則り頂かなくてはならない神聖な

飲み物であるというお考えから、正しい「酒道」の普及にご尽力されています。

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Q :お酒に親しまれたのはいつ頃ですか?

A:もちろん若いときからお酒は飲んでいました。ところが、経営者の勉強会として参加していた

「経営研究会」で知り合った友人に勧められて、初めて吟醸酒を飲み、その味わいの深さに感動

したのが本格的に日本酒とつきあうきっかけになりました。

当時は精米が悪かったこともあり、まだまだ不純物を含んだ偽物の日本酒が一般的でした。

不純物が含まれていると味ばかりではなく匂いも良くありません。

「経営研究会」には地酒商の方たちも何人かいらっしゃいましたので、そのご縁もあり

20年位前になりますが、わたしが代表幹事となり、新橋で日本酒教室を開催しました。

Q :良いお酒と悪いお酒とは作り方でどこから差がでてくるのですか?

A:まず、いいお酒を造っておられる蔵元のご主人は、人間的にも大変立派な方たちです。

そんな方たちが、日本の古来の伝統であり世界に誇る酒造りについてさらに研究しながら

いいお酒を生み出してくれています。いいお酒はそんな蔵元で、腕のいい杜氏さんがいて、

いい麹・いい米・いい水を使ってはじめて出来るのです。

麹(米を一旦糖化させる)や酵母(糖分をアルコールに変える)の選び方も重要です。

原料の米は精米度によるところが大きいでしょう。米粒の外側にある栄養分の高い部分が

残っていると、酒に癖をつけてしまいます。従って、米粒の回りを沢山削って芯白のみを残した

お米を使います。

水も「波動水を使っています」という宣伝も見かけますが、いいお酒に使われる水は最初から

いい水です。腕のいい杜氏によれば、いい水は舐めてみるだけで判るそうです。

舐めるだけで溶けている成分をぴったり当てるといいます。

気候にも酒の善し悪しが左右されます。昔の杜氏は大地に耳を当て、酒造りの時期を聞いたそうです。

それほど酒造りは自然と一体になった神聖で神秘的なものだったのです。

もちろん本当は大地の温度や湿度などを肌で感じ取る科学的な意味があるのでしょう。

Q:酒の品評会はどう行われるのですか。

A:大蔵省が日本酒造りの技術奨励を目的にして実施しています。毎年5月に前の年に仕込んだ酒を

醸造試験所で複数の審査官が利き酒をして判定しています。金賞に数の制限があるわけではなく、

判定基準に合格すればいくつ金賞があってもいいのです。同じ蔵元であっても前の年に金賞をもらったから

次の年も金賞がもらえるとは限りません。

鑑定する審査官は毎日300種もの日本酒で舌の訓練をしていますので、その判定は非常に正確です。

Q:日本酒の歴史を少し教えてください。

A:「古事記」には、伊邪那伎命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が

日本の国や多くの神々を作られたと書いてありますが、そこに既に大山津見神(別命
酒解神:

サケトケノカミ)というお酒の神様が出ています。木花咲邪姫は別命酒解子命
(サケトケノミコ)

というやはりお酒に関わる神様です。

ということは、お酒の歴史は
ほぼ日本の歴史と同じくらい古代から始まっているということです。

古代から飛鳥時代の頃までのお酒は、処女の巫女たちが米を咬んで吐き出して発酵させて作られて

いました。麹を使って発酵させる方法は、長岡京以降の渡来人たちが持ち込んだ
新技術だったのです。

酒の生産地としては、秀吉の頃は伊丹が有名ですが、足踏み精米だったため生産量は多くはありません

でした。その後、灘で六甲の谷川の水を利用した水車で大量に精米できるようになり、灘が酒どころとして

有名になりました。大量生産によるコストダウンと味の良さでもてはやされたのです。江戸時代には

この灘の酒が江戸に運ばれ評判になりました。
この頃の精米法は米をつく方法でしたので精米率は

せいぜい15〜20%くらいです。
それ以上精米しようとするとお米が割れてしまうのです。

現在行われているような、米粒の表面を削る方法は明治の終わりから大正にかけて広島で開発された

「佐竹式精米機」以降です。


この機械で、芯白を壊さずに精米度が上げられ、おいしい酒が出来るようになったのです。

Q:会長は「酒道」の普及に力を入れられていますが「酒道」とはどんなものですか。

A:お酒はその発祥の歴史からも判るように、元来は天皇が神前とか祖先を祭る時の貴重な供え物でした。

今でもお祭りにはお酒は欠かせませんが、それは安全祈願や収穫御礼のためにお酒を供えて「祝詞」を

あげるもので、「御神酒」といわれ神聖なものです。

源頼朝が武士の心得として制定した「軍用記」には三三九度の盃事が出ていますが、酒は九盃までしか

飲んではいけない決まりでした。


鎌倉時代には厳しい禁酒令が出ていますが、この頃の礼法が「酒道」の原型になったのではないでしょうか。

江戸時代に「酒道」が広まったのですが、礼法だけではなく美学も芸術性も加わったと思います。

「酒道」には武家酒道、商家酒道、町人酒道、公家酒道があります。

茶道と同じように
酒の席では身分の上下はありません。場合によっては出世の手段にもなりました。

「酒道」が廃れたのは、明治以降です。江戸文化の切り捨てや洋装の指導が原因でしょう。

羽織袴がなくては「酒道」は成り立ちません。

また、日清・日露戦争のため若い兵隊を鼓舞する目的や酒税をかけて戦費を徴収する目的

があって、沢山酒を消費することが奨励され、「酒道」で酒を飲むことはなくなったのです。

(次回に続きます。お楽しみに)

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